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オペラ「アマールと3人の夜の訪問者」での重要な小道具である「黄金と乳香と没薬」。

黄金はともかくも、なんとなく漠然している「乳香と没薬」について、
興味深い話を東京の漢方医・九鬼伸夫さんのHPから見つけました。
ご紹介します。

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約二千年前、パレスチナの寒村ベツレヘムで、旅行中の貧しい大工の子としてイエスと呼ばれる赤子が生まれた。東方にあって占星術の研究をしていた三人の学者が星に導かれてこの赤子を訪ねあて、三種の宝物を捧げた。それは黄金と乳香と没薬であった。新約聖書はそのように、後にキリストと呼ばれる人の誕生の物語を伝えています。

幼いころにこの話しを聞いて、乳香、没薬という見たことも聞いたこともない宝物の名に、とても神秘的、異国的な印象を受けたことを覚えています。それが一体どんな物なのかわからないまま、記憶の底に沈んでいました。

歳月は流れ、乳香が突然私の前に現れたのは、昨年のことでした。患者さんの一人が持ってきてくれたそれは、切り取った親指のような形をして、乳汁と果汁をかき混ぜたような不思議な半透明の色をしています。彼の言う方法で加熱してみると、芳香を含んだ白煙が、ふつふつという微かな音とともにたちのぼります。その香りは、深い森に抱かれたような安心感と清々しさを呼び起こすのでした。

その患者さんの身内の方が、アラビアから乳香の輸入をされている、ということで、私もその後ときどき譲っていただき、乳香を焚くようになりました。不眠や喘息などに効果がある、とのことでしたが、私の使い方はリラックス目的のアロマセラピーというところでしょうか。

乳香はカンラン科のニュウコウジュという木の樹脂が固まったもの、没薬のほうも、ごく近い種類の木の樹脂が固まったものだそうです。

私たちの生活にほとんどなじみのないこうした物に「乳香」と美しい日本語の名前がついているのが不思議に思えて、いろいろ調べてみたら、驚くことがたくさんありました。

だいいち、漢方治療のための生薬の事典に、乳香も没薬もちゃんと載っているではありませんか。シルクロードを通じて古くから西方と交易のあった中国では、乳香も没薬も古くから薬物として導入され、中国での生薬の名として、西方でいうオリバナムを「乳香」と、「ミルラ」を「没薬」と呼んだのでした。聖書と漢方薬がこんなところで結びついていました。

専門書によれば、中国では乳香、没薬とも外科・整形外科の常用鎮痛薬で、両者を併用することが多い、とあります。しかし現在の日本では、漢方治療に乳香や没薬を使うことはまずありません。

驚いた、というよりは不明を恥じるべきなのかもしれません。意外のもう一つは、ミイラです。ミイラって、没薬の原語に当たるミルラがなまって、しかも名前と物がズレたまま固定して日本語化してしまったものだそうです。古代エジプトでは、遺体を防腐処理してミイラ化するのに没薬が使われたのですが、その薬の名がミイラという名になってしまった、というのです。

異文化の出会いにこうした混乱はつきものでしょうが、混乱といえば、「カンラン」もコンランしています。乳香も没薬もカンラン科の木から採れます。「橄欖」と書いてカンラン、これをオリーブのことだと思っている方が少なくないのではないでしょうか。オリーブの実とカンランの実が似ていることから、中国で聖書を訳す時にオリーブを橄欖と書いてしまったのが混乱の始まりだそうで、日本語の聖書でも昔は混同されていたし、旧制高校の寮歌などでも、橄欖と書いてオリーブとルビをふったものがあるそうです。

全文はこちらです。
http://www.asahi-net.or.jp/~mh9n-kk/saijiki12.html

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第2話 「うそをついてはいけません」

礼拝が終わった後、会衆に向かって牧師が言った。「来週は『うそをついてはいけない』という説教をします。その準備のためにみなさまは前もってマタイによる福音書の第29章を読んでおいてください。」

そして、次の日曜日が来た。牧師は会衆に尋ねた。「私が先週言った聖書箇所をお読みになってきたでしょうか」・・・敬虔そうな信徒が何人か手を挙げた。牧師は言った。「きょうはあなた達のためにお話ししましょう。マタイによる福音書には第28章までしかありません。」

Moujin 1.目の見えない人の癒し

皆さんがKyrie eleisonと歌われる前に、この盲人「ティマイの子バルティマイ」のお話を心に刻んでいただきたく思います。
イエスの最後の一週間、いわゆる「受難週」を前に、目の見えなかった人の癒しの場面があります。その描かれ方は、マタイ、マルコ、ルカのそれぞれの福音書で少し違いがあるのですが、「憐れんで下さい」は、決して我々が日常的に思い浮かべる「かわいそうに思ってください」という意味ではないことを知っていただけると願います。

その盲人は道端に座っていました。それは物乞いをしていたということでしょう。当時の社会では、目の見えない人はそのようにして生きるしかなかったのです。彼はイエスがお通りだと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。大勢の人々の中のどこにイエスがおられるのかわからないです。彼は、ひたすら大声で、叫び続けたのです。弟子やらイエスに続く人が彼を阻止しました。それでも彼は自分の声をなんとか聞き取ってもらいたいという必死の思いで叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。そうです、「Kyrie eleison!」と叫び続けたのです。人々に叱りつけられても、やかましい、邪魔だ、黙っていろとののしられても、ひるまずに叫び続けたのです。
彼がこの叫びをあげなければ、イエスはそこを通り過ぎたことでしょう。
まさにこの彼の叫びこそがミサの第一曲目「Kyrie eleison」の響きに内在しなければならないものなのです。

Kyrie eleisonを3回
Christe eleisonを3回
そしてまた
Kyrie eleisonを3回

3という数字がキリスト教的に意味のあるものとして
父・子・聖霊をあらわすことは広く知られていることですが、それに加えて私は
ミサ通常文に定められたこの執拗な反復は「盲人バルティマイ」の執拗な叫びの繰り返しそのものと捕らえています。

2.「何をしてほしいのか」 と問うたイエス

誰も相手にしなかった彼に、イエスだけは、立ち止まりました。そして意外にも彼に「何をしてほしいのか」と問われたのです。「この目を癒していただきたい、見えるようになりたい」と願っていることは明らかなのにです。
しかし主イエスは敢えて、「何をしてほしいのか」と彼に問います。イエスは彼の要求に対して言及はせずに、彼の目に触れ、見えなかった目を見えるようにして下さいました。彼が切に願い求めていた癒しの奇跡が起ったのです。彼の喜びはいかばかりだったでしょうか。

3.願いがかなった彼は・・・・

「ああこれで人並みの人生が歩める、仕事をし、家庭を持ち、好きなことをして生きることができる」と思ったのはただの一瞬にしか過ぎませんでした。
願いの通りに目を開かれた時、彼が本当に求めていたのは、自分たちの苦しみを本当にわかって下さり、救いを与えて下さるこの方との出会いだったのだということに気づいたのです。
暗闇から解放し、光を与え、本当に生き生きと人間らしく生きる道を開いて下さった、イエスと共にいたい、この方についていきたい、従っていきたいという思ったのです。
イエスの「何をしてほしいのか」との問いは、彼の心の奥底にあるこの真実な願い求めを呼び覚まそうとされたのです。

4.見るべきものが見えていない私たち。

「憐れみを求めるなどということは好かん」「憐れみなどいらない」「人に憐れまれるほど落ちぶれてはいない」と思う人がいるとすれば、それは自分自身のことがわかっていない、見えていないということでしょう。私たちはみんな、この盲人と同じなのではないでしょうか。自分がどれほど罪と汚れに満ちた者であるか、神様を侮り、畏れず、ないがしろにしているか、そして隣人をどれほど傷つけ、悲しませ、苦しめているか、そういうことに気づかないのです。ましてや「言葉の数と勢いで相手を打ちのめし優位性を保つ」という方法論をしか持たない輩は何も見えていない、否、見ようともしない心の盲人なのです。実際に目が見えず、そのために物乞いをして生きなければならなかった盲人の方が、自分の惨めさ、悲惨さをよりはっきりと知っていたと言えるでしょう。

5.キリエ・エレイソンと歌うときは・・・

キリスト者の信仰とは、イエス・キリストの憐れみをひたすら求めつつ生きることです。「主よ、憐れみたまえ」と祈り続けることです。「盲人バルティマイ」が乞い求めたようにです。その普遍性ゆえに「Kyrie eleison」とギリシャ語のまま、教会の祈りの言葉となって残り続けているのです。どうかそのことを忘れず「ミサ曲」の第一曲目「主よ、憐れみたまえ」と歌ってほしいものと切に願います。
あまり知られていない曲ですがモーツアルトにKyrie d-mollという単独の曲があります。一連のミサ曲の流れで作られたのでなく、kyrieだけを独立させた味わい深い私の好きな曲です。一度お聞きになってください。

「主よ、憐れみたまえ」
詩編 第57編1~12節
マタイによる福音書 第20章29~34節

参考文献 ①日本キリスト教団 富山鹿島町教会藤掛順一牧師のメッセージより
http://w2322.nsk.ne.jp/~tkchurch/mes_165.html

②画像借用 日本キリスト教団荒川教会 牧師国府田祐人 聖画で綴るイエス様の物語http://www2.plala.or.jp/Arakawa/c051.htm   

面白い小噺を仕入れました。これから少しづつ紹介しようと思います。

その1 天国の入り口

妻の尻に敷かれている夫が多くなったと嘆いていた天国の門番が、その実態調査に乗り出した。天国の入り口のうち、既婚男性専用の門を「妻の尻に敷かれた人」用と「妻の尻に敷かれなかった人」用に分けたのだ。すると、嘆かわしいことに、「妻の尻に敷かれた人」用の門の前には長蛇の列ができ、もう一方の門の方にはだれもいなかった。

すると、ひとりの男が「妻の尻に敷かれなかった人」用の門に向かって歩いてきた。「門番は、ようやくひとり来たか」と思い、喜んでその人に話しかけた。「こちらの門に来る人はあなたが初めてですよ」。すると、男は申し訳なさそうに言った。「妻に、こっちの門へ行けと言われたもので・・・。」

Virgin_pAmenという短い2音節に言葉にもかかわらず、ヘンデルは演奏するのに3時間を要するメサイアの終曲に159小節ものAmen Chorusに仕上げました。
ここにAmenの精神性が描かれてように思います。大オラトリオのクライマックスはあるときに声高々に、あるときは心静かにアーメンと歌い、神の救いの成就・完成を表現していることをまず音楽家としての感性で心に覚えましょう。

面白いお話を一つ。
古代ユダヤ教会では、聖職者が聖書の一句を読み、続けて会衆が復唱することで、聖書の丸暗記教育を施していたのですが、次第に会衆は復唱がめんどうになり、会衆は「アメン!」(そのとおり!)とだけ言うようになった、というのです!!
いつの世も平民は正直ですね。面倒なことは避けたいという思いは庶民の怠惰な共通項ですね。
これがユダヤ教から派生したキリスト教にそのまま受け継がれ、神父の祈りの言葉をの後に会衆がアーメンと言うようになったのです。 そのような背景を知ると、教会での祈りや賛美歌の終わりに厳かに発せられるアーメンがなんだかとても親しいものに感じられませんか?

話を戻しましょう。
20世紀中期までミサはどこの国でも「ラテン語」で行われていました。しかし第二バチカン公会議(1961年~1964年)で、もっと親しみのある「ミサ」が検討されて、それぞれの自国語でのミサを行うよう取り決めがなされました。音楽家として知っておきたいのはレクイエム・ミサにおける続唱(「怒りの日」Dies Iraeなど)も廃止されたのもこの会議でした。歌詞の内容があまりにも最後の審判への不安や恐怖を強調しすぎており、本来のキリスト教の精神から遠いというのが理由でした。

さて自国語でのミサを、との合議でしたが、
昔の文語体聖書には「アーメン」を「成れかし」と訳されているらしいのですが、両者の響きの違いに戸惑ってしまいます。
かといってヘブライ語をそのまま訳して「その通り!」「賛成!」「真実だ!」と叫んでしまえば、なんだか前述の古代ユダヤ教会にすぐにでも戻ってしまいそうです。

「私も心から、本当にそう思います」「そのとおりになりますように」という切実な思いをうまく伝える日本語がみあたりません。そこでヘブル語で記された旧約聖書での「アーメン」、ギリシャ語の新約聖書にも引き継がれた「アーメン」をそのまま伝承することが自然な選択だったのです。

「アーメン」という言葉と、「信じる」というヘブル語の動詞とは同じ形をしているとのこと。つまり、旧約聖書の中で、「信じる」と言えば、信じることのできる確かなもの、つまりアーメンなるものを信じる、信頼できる確かなアーメンを信じるという意味が込められています。

祈りや賛美の最後で「アーメン」には、「私も心から、本当にそう思います」「そのとうりになりますように」と強い確信と願いが込められていることを理解した上で演奏に臨んでください。

アーメンと同様にハレルヤ・メシア・イスラエルなども、キリスト教に残る代表的なヘブライ語ですが、これらについては別項に譲ることにします。


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