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Moujin 1.目の見えない人の癒し

皆さんがKyrie eleisonと歌われる前に、この盲人「ティマイの子バルティマイ」のお話を心に刻んでいただきたく思います。
イエスの最後の一週間、いわゆる「受難週」を前に、目の見えなかった人の癒しの場面があります。その描かれ方は、マタイ、マルコ、ルカのそれぞれの福音書で少し違いがあるのですが、「憐れんで下さい」は、決して我々が日常的に思い浮かべる「かわいそうに思ってください」という意味ではないことを知っていただけると願います。

その盲人は道端に座っていました。それは物乞いをしていたということでしょう。当時の社会では、目の見えない人はそのようにして生きるしかなかったのです。彼はイエスがお通りだと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。大勢の人々の中のどこにイエスがおられるのかわからないです。彼は、ひたすら大声で、叫び続けたのです。弟子やらイエスに続く人が彼を阻止しました。それでも彼は自分の声をなんとか聞き取ってもらいたいという必死の思いで叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。そうです、「Kyrie eleison!」と叫び続けたのです。人々に叱りつけられても、やかましい、邪魔だ、黙っていろとののしられても、ひるまずに叫び続けたのです。
彼がこの叫びをあげなければ、イエスはそこを通り過ぎたことでしょう。
まさにこの彼の叫びこそがミサの第一曲目「Kyrie eleison」の響きに内在しなければならないものなのです。

Kyrie eleisonを3回
Christe eleisonを3回
そしてまた
Kyrie eleisonを3回

3という数字がキリスト教的に意味のあるものとして
父・子・聖霊をあらわすことは広く知られていることですが、それに加えて私は
ミサ通常文に定められたこの執拗な反復は「盲人バルティマイ」の執拗な叫びの繰り返しそのものと捕らえています。

2.「何をしてほしいのか」 と問うたイエス

誰も相手にしなかった彼に、イエスだけは、立ち止まりました。そして意外にも彼に「何をしてほしいのか」と問われたのです。「この目を癒していただきたい、見えるようになりたい」と願っていることは明らかなのにです。
しかし主イエスは敢えて、「何をしてほしいのか」と彼に問います。イエスは彼の要求に対して言及はせずに、彼の目に触れ、見えなかった目を見えるようにして下さいました。彼が切に願い求めていた癒しの奇跡が起ったのです。彼の喜びはいかばかりだったでしょうか。

3.願いがかなった彼は・・・・

「ああこれで人並みの人生が歩める、仕事をし、家庭を持ち、好きなことをして生きることができる」と思ったのはただの一瞬にしか過ぎませんでした。
願いの通りに目を開かれた時、彼が本当に求めていたのは、自分たちの苦しみを本当にわかって下さり、救いを与えて下さるこの方との出会いだったのだということに気づいたのです。
暗闇から解放し、光を与え、本当に生き生きと人間らしく生きる道を開いて下さった、イエスと共にいたい、この方についていきたい、従っていきたいという思ったのです。
イエスの「何をしてほしいのか」との問いは、彼の心の奥底にあるこの真実な願い求めを呼び覚まそうとされたのです。

4.見るべきものが見えていない私たち。

「憐れみを求めるなどということは好かん」「憐れみなどいらない」「人に憐れまれるほど落ちぶれてはいない」と思う人がいるとすれば、それは自分自身のことがわかっていない、見えていないということでしょう。私たちはみんな、この盲人と同じなのではないでしょうか。自分がどれほど罪と汚れに満ちた者であるか、神様を侮り、畏れず、ないがしろにしているか、そして隣人をどれほど傷つけ、悲しませ、苦しめているか、そういうことに気づかないのです。ましてや「言葉の数と勢いで相手を打ちのめし優位性を保つ」という方法論をしか持たない輩は何も見えていない、否、見ようともしない心の盲人なのです。実際に目が見えず、そのために物乞いをして生きなければならなかった盲人の方が、自分の惨めさ、悲惨さをよりはっきりと知っていたと言えるでしょう。

5.キリエ・エレイソンと歌うときは・・・

キリスト者の信仰とは、イエス・キリストの憐れみをひたすら求めつつ生きることです。「主よ、憐れみたまえ」と祈り続けることです。「盲人バルティマイ」が乞い求めたようにです。その普遍性ゆえに「Kyrie eleison」とギリシャ語のまま、教会の祈りの言葉となって残り続けているのです。どうかそのことを忘れず「ミサ曲」の第一曲目「主よ、憐れみたまえ」と歌ってほしいものと切に願います。
あまり知られていない曲ですがモーツアルトにKyrie d-mollという単独の曲があります。一連のミサ曲の流れで作られたのでなく、kyrieだけを独立させた味わい深い私の好きな曲です。一度お聞きになってください。

「主よ、憐れみたまえ」
詩編 第57編1~12節
マタイによる福音書 第20章29~34節

参考文献 ①日本キリスト教団 富山鹿島町教会藤掛順一牧師のメッセージより
http://w2322.nsk.ne.jp/~tkchurch/mes_165.html

②画像借用 日本キリスト教団荒川教会 牧師国府田祐人 聖画で綴るイエス様の物語http://www2.plala.or.jp/Arakawa/c051.htm   

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